巨人・坂本、亡き友の闘病支えた1447安打!&天へ届けた553安打!

G速@読売ジャイアンツまとめブログ

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画像参照元:
https://news.yahoo.co.jp/articles/f16eacbb97d4facaddff9a95d0ce55ab5d9f743c/images/000




1: 2020/11/09(月) 05:17:57.78 ID:CAP_USER9

通算2000安打を達成した巨人・坂本勇人内野手(31)には、報告をしたい友がいた。青森・光星学院(現八戸学院光星)高時代の同級生で、同じ1988年12月14日生まれの柴田耕一郎さん(享年28)。悪性脳腫瘍で2017年5月9日に他界した“球友”の父・耕治さん(58)、母・三枝子さん(56)は大阪・吹田市内の自宅で偉業達成の瞬間を迎えた。(取材構成・谷川直之)

 坂本の大台到達を吹田市の自宅で見届けた耕一郎さんの父・耕治さんは「『勇人、おめでとう』と言いたい。耕一郎も喜んでいるんちゃうかな」と感慨に浸った。耕一郎さんの遺影は、東京ドームに駆け付けた弟・憲二さんによって、背番号6に向けられていた。

 耕一郎さんは、坂本と同じ1988年12月14日生まれ。関西から青森・光星学院高に野球留学した仲間で、2006年の選抜大会で、ともに甲子園の土を踏んだ。年末年始の帰省や巨人の遠征中に食事へ出かけるなど、卒業後も交流が続いた。

 ところが、運命の歯車は突然狂い出す。プロ1年目の07年9月6日の中日戦(ナゴヤドーム)で坂本がプロ初安打を放った頃、東北福祉大で外野手としてプレーしていた耕一郎さんは顔面けいれんを頻繁に起こすようになっていた。同年10月17日、悪性脳腫瘍が発覚した。

 大学卒業後も岐阜・中部学院大、茨城・明秀学園日立高でコーチを務めた。「野球が大好きな子でしたから。(高校時代の)恩師の金沢監督や、いろいろな方からご縁をいただいて頑張っていました」と母・三枝子さん。一方で、計5度の手術を受けながら病状は悪化していった。

 長い闘病を支えたのは友の活躍だった。入院中の耕一郎さんの日課は、スポーツ新聞とテレビでの巨人戦のチェック。「病室に行ったら『勇人、調子ええで!』って、うれしそうに言ってくるんです。その顔を見るたびに、僕ら家族は勇人に感謝していました」と耕治さんは振り返る。

 発症から9年が過ぎた17年4月9日、坂本の姿は大阪府内の病院にあった。その10日前、耕一郎さんが余命2、3週間の宣告を受けたことを聞いた坂本は、阪神戦(甲子園)が中止となったことを受け、許可をもらってチームを離脱。高校の同級生たちとサプライズで病院を訪問したのだ。

 病室に足を踏み入れると、既に話すこともままならなかった耕一郎さんから「おぉ! 勇人」と声が上がった。坂本は、その左手を両手で握りしめた。高橋監督(当時)、阿部、村田、長野らのサインが入った背番号6のユニホームを渡し、一緒に写真を撮った。それから1カ月後の5月9日。耕一郎さんは静かに息を引き取った。

 翌10日、通夜に参列していた同級生の東谷優さんに、坂本は東京ドームから電話で告げた。

 「試合があるから行けない。みんなに『試合の結果を見ておいて』と伝えて。俺、打つから」

 その夜に放った2本塁打は亡き友への手向け。お立ち台で目を潤ませた理由を本人は当時も今も明かさないが、斎場は涙と拍手に包まれた。そして、坂本がその通夜で送った弔電は、こう締めくくられている。

 「お前の分まで野球を頑張るので応援していて。耕一郎に出会えて本当に良かった」

 友が生涯を終えた日までに放った安打は1447本。全てが耕一郎さんの力になった。坂本も耕一郎さんから力をもらい、2000安打の節目にたどり着いた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/8270302641b6aa69a174090216007edde4ba3c24
11/9(月) 5:00配信

36: 2020/11/09(月) 08:27:01.99 ID:s2CcP+ZF0
>>1
涙が止まらない。巨人最高だな。

4: 2020/11/09(月) 05:20:32.15 ID:Kl1Lm9RUO
坂本「俺にはかつて強敵(とも)がいた」

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